郷土の近代化を振り返る

新潟県における銀行業の発展⑫─主要銀行の経営者たち─

2021/03/01 :郷土の近代化を振り返る

京都産業大学   経営学部   マネジメント学科教授  松本 和明 (まつもと   かずあき)  氏

1.第四銀行:白勢春三とその周辺

1896(明治29)年から1941(昭和16)年までの実に45年にわたり第四銀行の経営にリーダーシップを発揮したのが白勢春三である。

白勢は、1862(文久2)年12月に、後に第四国立銀行取締役支配人を務める彦次郎の長男として蒲原郡金子新田で生まれた。88年に父の病気に伴い支配人心得として入行し、96年12月の普通銀行への改組と新潟銀行への改称時に専務取締役に就任した。この時点では頭取制がとられてなかったので、事実上のトップであった。なお、頭取(第3代)となるのは1922(大正11)年7月である。

白勢は誠実な性格でかつ公私を明確に峻別し、堅実経営の姿勢を揺るがせにせず、第四銀行への改称(1917(大正6)年)、支店・出張所の新設や他行の合併・買収などを進めて、持続的成長を主導した。同行の経営の基軸を確立したといっても過言ではない。調査体制の整備や若手行員の能力育成への注力も大きな業績といえる。

白勢を支えた人物として、宇尾野藤八、上田弘教、南部虎造に注目したい。

宇尾野は新潟市立商業学校(現・新潟県立新潟商業高等学校)第5代校長を務めた後に入行し、本店支配人や新発田・水原地区監督を経て、専務取締役を務めた。上田と南部は行員として入行してキャリアを育み、上田は新発田支店・本店支配人や取締役東京駐在さらに専務取締役、南部は本店支配人さらに常務取締役を歴任している。

白勢は、新潟水力電気(後の新潟電力)・新潟信託・二葉社社長、日本石油・越後鉄道取締役、新潟商業会議所第3代会頭や新潟市会議長・衆議院議員・貴族院議員なども務めた。

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新潟県における銀行業の発展⑪

2021/02/01 :郷土の近代化を振り返る

京都産業大学   経営学部   マネジメント学科教授  松本 和明 (まつもと   かずあき)  氏

1.六日町地域

六日町は、江戸時代以来、三国街道の宿場町とともに魚野川の河港として栄えた。江戸時代は縮布、明治以降は蚕糸業が主な産業であった。

1896(明治29)年に青木利福(中目来田村)をはじめ高橋捨松や遠藤利策(ともに六日町村)などの地主や商人が中心となって銀行創設の計画が策定されはじめ、98(明治31)年2月1日に六日町銀行として大蔵省から設立の認可を受けた。

資本金は当初7万円を予定していたが、出資希望者が多かったため、10万円に変更した。

初代の専務取締役(後に頭取)には青木が就任した。取締役や監査役は次のとおりである。

取締役: 高橋捨松(新潟県会議員)・豊島文治郎(塩沢村・縮布仲買商)・伊佐早彰(富実村)・ 大平幸吉(余川村)・樋口良助(湯沢村)

取締役兼支配人:山崎量平(大富村)

監査役: 上村廉平(大富村)・中島恵治(大崎村)高橋藤九郎(大富村)・関与三兵衛(浦佐村・肥料商)・高橋郷治郎(長崎村・新潟県会議員)

設立当初の株主は242名(合計2,000株)で、南魚沼郡内の株主は225名・1,825株と大半を占めていた。

その一方で、北魚沼郡津山村(現・長岡市川口地域)の古田島清作が50株、古志郡長岡町の小林文平が20株を所有していた。少数株主ではあるが、中魚沼郡や三島郡深才村(現・長岡市)の在住者もいた。

小林は、表四ノ町(現・表町4丁目)で「豊後屋」との商号で呉服太物商を営んでいた。長岡商工会議所議員や長岡市会議員も務めている。小林は縮布や紬の小売も手がけており、商取引において六日町との関係が深まり、出資をおこなったと考えられる。

南魚沼郡の株主は、上述の役員の居住地をみてもわかるように、六日町地域のみならず、塩沢や湯沢および大和地域にも広がっていた(南魚沼市教育委員会発行『六日町史 通史編 第三巻 近・現代』2018年)。

ところで、南魚沼郡における初の銀行は、1895(明治28)年1月25日に三用村(後の東村)大字雷土で創設された雷土銀行である(専務取締役:佐藤梅太郎・上村宇伝治)。同年3月に開業するにあたり、佐藤は「一銭の金は小なりと雖も集まって千万鎰に至れば即ち以て大業を興す所以なり」(南魚沼教育委員会発行『大和町の近・現代』2020年)と銀行の意義を強調している。同行はこの地区の頼母子講である「共積講」を改組したもので、この時点の資本金は1万2,000円にすぎず、98(明治31)年には2万円に増資したものの、郡全域をフォローできる事業規模ではなかった。

それゆえ、六日町銀行は、地域に根付いた本格的な金融機関として、郡内全体から期待を集めたのである。

1898(明治31)年4月1日に、六日町村大字六日町第63戸にて開業した(現在の第四北越銀行六日町支店の場所、1900年7月に町制施行)。

開業直後から、六日町銀行は地域の農家や商工業者、特に蚕糸関係者に対し積極的に資金を提供した。

注目すべきは、たびたび魚野川の出水の被害にみまわれた浦佐・大崎・塩沢など8カ村に対して無担保かつ低利子融資をおこなったことである。地域に寄り添う姿勢の象徴といえる。

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新潟県における銀行業の発展⑩─小千谷および小出地域での銀行の設立と展開─

2021/01/18 :郷土の近代化を振り返る

京都産業大学   経営学部   マネジメント学科教授  松本 和明 (まつもと   かずあき)  氏

小千谷は、江戸時代中期の1724(享保9)年に会津藩の領地となり、55(宝暦5)年に代官所がおかれるとともに、「小千谷縮」および原料の苧麻の売買がさかんとなり、魚沼郡の中心地として栄えた。

明治維新後には、1874(明治7)年に国学者の山本比呂伎をはじめ商人の山本安兵衛や広川利兵衛などによる織物の生産や米などの物産販売を目的とした機会社(資本金1,000円)、80年5月に山本および五十嵐麗景や井口官蔵などによる金融業および諸物産売買を目的とした保進社(資本金3万3,000円)が立ち上げられた(小千谷市史編修委員会編『小千谷市史 本編下巻』小千谷市、1967年)。時代の変化のなかで、近代的組織をいち早く取り入れており、地域の先駆性をみいだしえる。

山本は、私財1,000両を投じて、1868(明治元)年に「小千谷校」を下タ町(現・小千谷市元町)の五智院に創設した。同校は日本初の公立小学校で、小千谷小学校のルーツである。ちなみに、翌1869年に京都で住民自治組織による番組小学校が立ち上げられている。

1873(明治6)年に第四国立銀行、78(明治11)年の第六十九・七十一・百十六国立銀行、79年の第百三十九国立銀行と新潟県内での銀行の設立が相次ぐなかで、小千谷でも金融機関の設立の機運が高まっていった。

1880(明治13)年11月に、西脇吉郎右衛門・山口権三郎・山田権左衛門・大塚益郎・蕪木八郎右衛門が発起人となって、資本金15万円で銀行類似会社を創設することを決めた。 続きを表示…

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新潟県における銀行業の発展⑨─加茂および今町地域での銀行の設立と展開─

2020/12/25 :郷土の近代化を振り返る

京都産業大学   経営学部   マネジメント学科教授  松本 和明 (まつもと   かずあき)  氏

1.加茂地域

加茂地域では、1882(明治15)年4月にいわゆる「銀行類似会社」として有限責任加茂会社が立ち上げられ(「賀茂会社」と表記されている文献もある)、翌5月5日に開業した。資本金は7万円(1株50円で1,400株を発行)、本店は南蒲原郡加茂町(現・加茂市)319番地におかれた。創設時の経営層は次のとおりである。

頭取:市川厚次郎

副頭取:笠原永昌(狭口村)

取締役: 古川伴吉郎・遠藤定次郎・石田友蔵・田下常治・本間雄平(検査係を兼務)
支配人:小池清広(上条村)

市川・笠原・吉川は地主、石田と田下は金融業、本間は醤油醸造業を営み、小池は屋号を「紅屋」と称していた。

株主には加茂町はもとより周辺町村の有力者たちが名を連ねている。

加茂会社の「規則」が残存している(加茂市史編集委員会編『加茂市史 資料編3 近現代』加茂市、2008(平成20)年)。全5条・50款から構成され、営業内容として「当座預金並ニ貸越定期預金貸付金割引代金取立手形為替及ヒ荷為替保護預リ又ハ両替等」(第一条第五款)が掲げられている。このほか、経営組織および役職員の任務、株主、株式の取り扱い、株主総会の運営、利益処分ないし配分の方法などが詳細に規定されている。役員は就任時に宣詞書の提出を求められ、「会社営業ノ全体ニ注意シ一切ノ事務ヲ処分シ総テ其責ニ任スヘシ」(第四条第五款)、「会社所有ノ金銀及ヒ諸証書預品等ヲ私用シ又ハ妄用スルヲ厳禁トス、社名ヲ濫用シ或ハ此規則ニ背戻シ夫レカタメ株主又ハ其他ノ人ヘ損失ヲ受ケシムル時ハ当時ノ役員之ヲ償弁スルノ責ヲ任スヘシ」(同第七款)と厳しい経営責任が課せられた。一方、株主に対しても「総会ノ節代人ヲモ出サスシテ決議ノ後異論アルトモ一切之ヲ申立ツル事ヲ得サルヘシ」(第五条第四款)、「総会ハ必ス株主ノ総員(本人代人共)十分ノ五以上ノ出席スルニ非レハ何事モ評議処分スルヲ得ス」(同第五款)とその責を果たすことが明示されている。

加茂会社は実質的には株式会社さらに銀行としての存在であるとみてよい。この時期の加茂での立ち上げは先駆的と評価できる。 続きを表示…

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新潟県における銀行業の発展⑧─三条地域での銀行の設立と展開─

2020/12/25 :郷土の近代化を振り返る

京都産業大学   経営学部   マネジメント学科教授  松本 和明 (まつもと   かずあき)  氏

1.三条銀行

三条地域に金融機関が創設される大きなきっかけとなったのが、1880(明治13)年5月21日に発生したいわゆる「糸屋万平火災」である。上町から出火した火災は三条町全域に加えて一ノ木戸・西および東裏館・上林・旭・須頃村さらに西蒲原郡燕町(現・燕市)まで延焼し、死者34名・負傷者52名、焼失戸数2,743戸を数える大惨事となった。

この災禍からの復旧さらに復興を推進するにあたり、三条町および近隣の有力者たちは資金調達の組織化を企図した。翌81(明治14)年4月15日に、有限責任三条会社が三ノ町に設立された。頭取に長谷川半平、副頭取に笠原文平、常務取締役に小師治七、取締役に源川万吉・広川長八・石田長次郎・浅間伝左衛門などが就いた。

長谷川は本下田村(後に森町村・下田村)在住で、南蒲原郡域を代表する地主の1人であった。源川は三条町一ノ町、石田は三ノ町で呉服太物商、浅間は一ノ町で小間物商を営んでいた(『日本全国商工人名録』1898(明治31)年)。

有限責任会社とは現在では目にすることがない組織形態であるが、ほぼ株式会社を意味するものといってよい。1893(明治26)年の商法(会社法)施行までは法的な株式会社は存在していなかったのである。

三条会社は「銀行類似会社」である。国立銀行条例では国立銀行以外では「銀行」と称することが制限され、さらにこの当時は銀行数過多のために国立銀行の新設が認められず、やむをえず銀行類似会社を選択することとなった事例が全国に多数存在していた。三条会社も1つのケースである。社名はともかく、預金・貸金・為替業務をおこなっており、実質的には銀行であったといっても過言ではない。

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新潟県における銀行業の発展⑦─長岡銀行(現・北越銀行)の設立と展開(下)─

2020/12/25 :郷土の近代化を振り返る

京都産業大学   経営学部   マネジメント学科教授  松本 和明 (まつもと   かずあき)  氏

1.貯蓄銀行業務への着手

1890(明治23)年8月に貯蓄銀行条例が公布された。貯蓄銀行は、1948(昭和23)年まで存在していた金融機関あるいは事業形態で、一般庶民に対する勤倹・貯蓄思想の啓蒙・普及と小口預金(当初は1口5円未満)の吸収を目的としたものであり、専業での設立のみならず普通銀行の兼営も認められた。

新潟県で初となる貯蓄銀行は、1895(明治28)年の貯蓄銀行条例の改正に伴い、同年9月に資本金3万円で設立された新潟貯蓄銀行である。初代の専務取締役が鍵冨岩三郎・鈴木久蔵・斎藤庫吉(後の2代目喜十郎)であった。

その後、1897(明治30)年に直江津積塵銀行(95(明治28)年設立・1915(大正4)年解散)および見附銀行(91(明治24)年設立・1922(大正11)年長岡銀行と合併)が兼営したものの、いずれも小規模に止まった。

こうしたなかで、長岡銀行は開業直後から貯蓄銀行業務の展開を志向していた。

開業翌年の97(明治30)年2月以降、支配人の広井一が上京して、安田銀行(現・みずほ銀行)および第百銀行(現在の三菱UFJ銀行のルーツ)で業務について学んだ。

1898(明治31)年2月に大蔵省へ貯蓄銀行業務兼営の認可を申請した。その申請書に、長岡が東山油田の発展や北越鉄道(現・JR信越本線)の建設により将来が有望であるものの、「貯蓄ヲ奨励シ、貯蓄ヲ安全ニ保護スルノ機関完カラザル為メ、人々ノ漸ク儲余シタル金ハ遊蕩費トナリ、奢侈費トナリテ飛散致候事有之、当行茲ニ見ル所アリ、大ニ貯蓄ヲ奨励」(北越銀行行史編纂室編『創業百年史』株式会社北越銀行、1980(昭和55)年)と指摘していることからわかるように、地域の経済成長で金回りがよくなった人々が贅沢になっていることを憂いて、地域の規律を正す意も含めて貯蓄業務の着手を決意したのである。

大蔵省からの認可を受け、同年3月15日から業務を開始した。早々から預金者が多く集まって盛況であった。なお、六十九銀行(同年1月1日に普通銀行に転換)の貯蓄業務開始は2日後の17日であった。 続きを表示…

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新潟県における銀行業の発展⑥─長岡銀行(現・北越銀行)の設立と展開(上)─

2020/12/25 :郷土の近代化を振り返る

京都産業大学   経営学部   マネジメント学科教授  松本 和明 (まつもと   かずあき)  氏

1.設立のプロセスと山口権三郎

1896(明治29)年2月20日に、新潟市で開催された北越鉄道(現在のJR信越本線のルーツ)の臨時株主総会に出席した大塚益郎(三島郡片貝村)・久須美秀三郎(同郡小島谷村)・渋谷初次郎および渋谷善作(南蒲原郡郷分村のちの傍所村)が会合を開き、長岡に新たな銀行の立ち上げが必要との認識で一致した。

翌3月11日に、古志郡長岡町(現・長岡市)の敦賀屋にて、久須美・大塚・渋谷善作に加えて野本松二郎(長岡町)、さらに山口権三郎(刈羽郡横沢村・現在の長岡市小国地域)が会合をもった。

これまで言及したように、山口は、日本石油(現・ENEOS)および新潟鉄工所や北越鉄道の設立と経営を主導するとともに新潟県会議長(第2・4・6代)を務め、新潟県の産業界・政界の最有力者の1人である。また、第四国立銀行や第百三十九国立銀行および小千谷銀行の取締役を歴任するなど金融業にも通暁していた。

山口も、前日の10日に長岡で開催された日本石油の臨時株主総会において、地域経済の発展に比して県内5行の国立銀行(第四・六十九・七十一・百十六・百三十九)では不十分で、「県下中央の長岡の地に一大銀行を設立し大に世間の需要に応じ、殖産興業の発達の道を講じ、文化進展に裨益する所なかるべからず」(広井重次編『山口権三郎翁伝記』岩瀬直蔵、1934(昭和9)年)と新銀行創設の意義を強調している。 続きを表示…

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新潟県における銀行業の発展⑤─村上・高田・津川地域での国立銀行の設立と展開─

2020/12/24 :郷土の近代化を振り返る

京都産業大学   経営学部   マネジメント学科教授  松本 和明 (まつもと   かずあき)  氏

1.村上:第七十一国立銀行

江戸時代において村上藩(概ね5万石)は三面川の鮭の採取権を独占し、明治以降も士族がこれを継承した。士族のなかでは、資産の余剰分を育英資金として積み立てる動きが出る一方で、日々の生活に困窮する家も続出するなど、他の旧藩域と同様に格差が生じていた。

こうしたなかで、1876(明治9)年の国立銀行条例の改正を契機に、士族の資産保全を目指して、旧藩士の若林安静と村部清纓(岩船郡村上本町)が中心となり、商人の樋口治郎平(村上町片町・呉服商)や岩佐喜蔵(大町)なども協力して、国立銀行の創設の準備が進められた。

1878(明治11)年4月9日に大蔵卿の大隈重信に対して提出された創立願には、発起人として、岩佐および尾崎助次郎、笹川四郎七(味方村)・小池與惣次(黒田村)・志田喜平次(上野村)・川口浜吉(塩谷村)、旧藩士の村部および古市喜内・樋口光軏・山口正清が名を連ねている(村上市編集・発行『村上市史 資料編8 近現代産業経済編』1993年)。

78(明治11)年10月7日に、資本金7万円をもって第七十一国立銀行として大蔵省から開業免許が下付され、翌11月15日に開業した。初代頭取には筆頭株主でもあった樋口、取締役に若林・岩佐・小池、支配人に村部が就いた。設立にはこの他、旧藩士の亘和順や山口直矢も関係し、旧藩の勘定方経験者などが行員となった。

開業にあたり、樋口は、「村上には特産物を製造する者はあるが、これに結合する資本家に乏しい。資本家が乏しいことは、資本の利子が高く産物が廉価にならず、需要も停滞し産業の発展も止まる。それで、資本と労力との結合を援けるべく銀行創立をみたが、今後の村上の産物と銀行の名の高まることを念じている」(村上市編集・発行『村上市史 通史編3 近代』1999年、181~182頁)と述べている。ビジネスと資金とを結び付けて地域振興に資するとの銀行のあり方を明言したのは興味深く、かつ今日的意義を有するものである。

 

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