越佐歴史漫筆

松前稼ぎ

2021/12/01 :越佐歴史漫筆

新潟市歴史博物館(みなとぴあ)  館長     伊東 祐之 氏

高度経済成長を支えた出稼ぎ

私は1970年代後半に『山古志村史』の編さんに参加させてもらい、年に4、5回山古志村へ通った。村の方々によくしてもらい、勉強になることがたくさんあった。村の方から伺った話で忘れられないことがある。「田中先生のおかげでようやく人並みの暮らしができるようになった。雪に閉じ込められる村では、冬が近づくと子供はじじ、ばばに預けて、若い者はみな関東へ働きに出ていた。トンネルができ、道路が舗装され、除雪ができ、長岡や小千谷に工場ができた。おかげで冬でも子供と離れ離れにならず、家族一緒に暮らせるようになった」という話である。

そのころ大晦日のテレビニュースの定番は、上野駅のホームで帰郷の夜行列車を待つ出稼ぎの人たちの映像だった。冬場の出稼ぎの人々が、建設工事の現場や、夜も稼働する工場で高度経済成長を支えていた。『新潟県年鑑 1966年版』には「(昭和)39(1964)年度の(新潟県の)季節的移動労働者数は2万4,144人で前年より3,756人の増加を示した」「季節労務の需要は逐年増加してきており、また第1次産業より第2次、第3次への就職が目立ち賃金も上昇を示している」と記載されている。農家が農業だけで生活できない。しかし地元に働き口がない。出稼ぎは人々の生計にとっても不可欠なことだった。

この後、農家の動向は、出稼ぎよりは挙家離村、農業よりは会社勤め・工場勤めとなり、村の過疎が進み、今は少子化もあって限界集落という問題になっている。

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糸を績む、布を織る

2021/11/01 :越佐歴史漫筆

新潟市歴史博物館(みなとぴあ)  館長     伊東 祐之 氏

糸と布

寒くなると無地の黒っぽい臙脂(えんじ) の薄手のセーターを思い出す。1960年代、私の母は家で内職をしていた。家庭用の毛糸編み機で、業者の持ってきた毛糸を指定されたサイズ、デザインの身ごろに編んで納める内職であった。定期的に業者が製品を集めに来て、かわりに労賃と毛糸を置いていった。私も両手を体の前に立て、長巻の糸を糸玉にするのを手伝った。母は内職の合間に家族のセーターも編んでくれた。私は、母が縄目模様や込み入った色模様を編むのに苦労するのを見ていて、自分のセーターは無地がいいと言った。それが臙脂のお気に入りのセーターである。ほつれたセーターは解かれて弟のセーターに編み直されたが、今はコタツがけの緯糸(ぬきいと)になっている。

新潟市歴史博物館では開館以来、糸よりや機織りを度々題材にしてきた。今、服は店で購入する物である。古くなったり、汚れたりした服は、燃えるゴミに出される。子供たちは、自分の着ている服が布を縫ってできていること、布が糸を織ってできていること、糸が植物繊維や動物の毛をよってできていることを知らない。恰好をつけたり、暖を取ったりするために着る衣服に、長年にわたる人々の技や工夫、努力が詰まっていることを知ってほしい。実は現在もあなたの見えないところで多くの人が、あなたが着ている服のために、綿摘みをしたり、服を縫ったりして働いていることを知ってほしい。そう思って、博物館で取り上げている。

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越後の鮭

2021/10/01 :越佐歴史漫筆

新潟市歴史博物館(みなとぴあ)  館長     伊東 祐之 氏

鮭を好む県民

10月になると、三面川の居繰り網漁を始めとして、新潟県内のあちらこちらの川から鮭漁のニュースが伝えられる。信濃川では新潟市の街中、昭和大橋の上流で鮭漁をしている様子が見られる。現在、「水産資源保護法」などによって、川では許された者が採卵用に鮭を獲ること以外は禁止されている。したがって、たまたま釣り針に掛ったにせよ、川で鮭を釣るのは密漁である。ご注意を。

私たちが今食べている鮭は、採卵用に獲った鮭か、海で獲ったり養殖されたりした鮭か、輸入された鮭ということになる。日本の川に遡上するシロサケとは異なる紅鮭や銀鮭も多く食べられている。江戸時代までは、日本では鮭をほとんど川で獲っていた。鮭は川に入ると餌を摂らないといい、体に蓄えた脂を消費してゆく。上流部で獲れた鮭は現在の海で獲った鮭のようには脂はのっていない。今はブナといって脂ののらない鮭を軽んずる人も多い。昔は、冷蔵技術が無かったので、脂が多いと油焼けして酸化することが多かった。そのせいか、昔の人はほどよく脂が抜けた、中流や上流の自分の住む辺りで獲れた鮭が一番うまいと自慢し合った。

鮭は新潟県民の食文化に重要な位置を占めている。鮭料理を売り物にしている店もあるし、鮭の加工品を販売する有名な店もある。駅や道の駅で、土産物や特産品として販売されている品数も多い。何よりも県民が好んで食べている。弁当には必ず塩鮭が入っているという人もいる。総務省が政令指定都市と都道府県庁所在地の都市を対象に実施している家計調査によれば、平成30(2018)年から令和2(2020)年の平均で、塩鮭は1戸あたりの年間購入数量3079g(全国平均1343g)でも、年間支出額4980円(全国平均2185円)でも、新潟市が全国第1位である。ちなみ、同じく両者で新潟市が第1位となっている品目としては枝豆などの「さやまめ」がある。

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新潟平野の開発と放水路

2021/09/01 :越佐歴史漫筆

新潟市歴史博物館(みなとぴあ)  館長     伊東 祐之 氏

大河津分水

平野も山あいも黄金色になり稲刈りのシーズンを迎える。新潟の米は美味しい米として全国に知られるブランドである。しかし、それは米余りと言われるようになる昭和50年代からのことであり、昭和30・40年代には新潟県は、美味しさはさておいて米の生産量日本一を目指して増産に努めていた。日本はまだ飢えを忘れていなかった。戦後の新潟平野の米の増産を可能にしたのが低湿地を乾田化する大型排水機場や排水路による治水であり、なかでも信濃川下流域の新潟平野を守っている重要な水路が大河津分水路であった。

信濃川の流れが海に一番近づく大河津から寺泊方面の海へ分水路を掘る計画は、江戸時代の半ばから計画されていた。寛政元(1789)年には寺泊の本間屋数右衛門という人が幕府へ潟を新田にする計画の一環として願い出て、幕府による調査も実施された。また、文化6(1809)年以降は、水害防止を主目的として出願された。しかし、大工事であり、膨大な費用がかかる。水路を通す予定地には田畑や家もある。また、平野の水位が下がることで、従来の用水路に支障が出る。そのため反対する藩や村も多く、度々願い出たが幕府の許可は得られなかった。

慶応4(1868)年、北越戊辰戦争のさなかに、新潟平野は大洪水に覆われた。混乱した越後の統治を担う越後府に対して、新潟平野の人々が大河津分水の着工を求める運動を起こした。支配の安定を図る越後府は工事の着工を決めるが、中央政府は財政支出を拒み、計画は一旦頓挫する。運動を進めてきた人々は嘆願を繰り返し、地元負担による工事実現を訴える。その結果、明治3(1870)年、政府も折れて工事を始めた。

だが、地元の負担金は重く、人足も出さなくてはならず、戦争や洪水で疲弊していた村々は困惑した。

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越後の盆踊り

2021/08/02 :越佐歴史漫筆

新潟市歴史博物館(みなとぴあ)  館長     伊東 祐之 氏

あまのてぶり

今年は懐かしい人々は帰省してくるだろうか。夏祭りや盆踊りができるだろうか。

みなとぴあは「あまのてぶり」という巻物を所蔵している。初代の新潟奉行川村修就(かわむらながたか)が江戸の子どもへの土産に新潟の6つの風俗を絵師に描かせ、嘉永5(1852)年に自らが説明の文章を付けたものである。その一景に新潟町の盆踊りがある。この絵が新潟下駄総踊りのヒントになったという。その川村の説明文の出だしには「越後国の盆踊りが盛んなことは、どこでも子どもでもよく知っているほどで、町や村でいくらか踊りの振りに違いはあるが、国中すべてどこでも踊っている」(以下、資料引用は抄出意訳)と書かれている。江戸時代の後期には越後といえば盆踊りというほどだったらしい。これは幕府の役人を引退して出雲崎で遊んでいた新楽閑叟(にいらかんそう)という人も、寛政11(1799)年に「この国のおどりを好むのは甚だしい。なかでも盆のおどりは国中大騒ぎで海が震え山が揺れるのではないかと思うほどだ」「村々は毎年のことなので、何か村で集まる広い場所が決まっていて、千人二千人ほどが黄昏から集まり、暁まで踊る」と村々でも盆踊りが盛んだと言っている。

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一月遅れ

2021/07/01 :越佐歴史漫筆

新潟市歴史博物館(みなとぴあ)  館長     伊東 祐之 氏

旧暦

4・5月号の越佐歴史漫筆①で、新政府による新潟港開港日の明治元年11月19日は、西暦で1869年1月1日だと書いた。明治5年まで日本では旧暦が用いられ、現在、私たちが用いている西暦とは異なっていた。旧暦とはどのような暦なのか。大雑把にいえば、旧暦は太陰暦で、月の満ち欠けに基づき新月から新月までを1か月とする。したがって、月の形をみれば日付けがわかる。1日はいつも新月で、15日はいつも満月である。月齢の一回りは、厳密には29日半ほどなので、1か月が30日の月と29日の月があった。30日の月を大の月、29日の月を小の月といった。私たちが使用している西暦とは異なり、何月が大小にあたるかはその年によって違った。

季節や自然は太陽のめぐりで変わっていく。月の12か月は太陽の1年より11日ほど少ない。放っておくと、3年で一月ほどずれていく。そこで旧暦では3年に1回、1年を13か月にした。いずれかの月のあとに閏月を設けて、太陽暦とのずれを修正していた。たとえば戊辰戦争のあった慶応4年は、4月の後に閏4月があった。3月末に江戸から帰藩した河井継之助は5月2日に慈眼寺会談をするが、その間は1か月余ではなく、2か月余あったことになる。因みに慶応4年は旧暦9月8日に明治と改元されて明治元年となる。この時に一世一元の詔が出た。それ以前は天皇の交替と関係なく改元されている。なので日本の歴史で一世一元は大正・昭和・平成のみである。

こうした暦を編む実務は、江戸時代前期以降は幕府天文方が行い、暦を作成販売する業者(弘暦者)が暦を販売していた。

しかし、修正しても旧暦はどうしても農作業などに支障があったので、実は農民は太陽の運行に基づく暦も併用していた。それが中国で考案された二十四節気である。夏至・冬至や春分・秋分、立春・大寒・啓蟄など、今も天気予報でよく聞くのがそれで、太陽暦の1年を24に区分して節目とした。西暦で暮らしている私たちは、節分は毎年2月3日(今年のように2日だと戸惑う)にやってくるが、旧暦で暮らしていると節分の日付けは毎年違っていたことになる。さらに日本では季節に合うように八十八夜や二百十日のように春分からの日数によって設けられた節もあった。こうした節は暦にも記載された。

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鉢植え大名

2021/06/01 :越佐歴史漫筆

新潟市歴史博物館(みなとぴあ)  館長     伊東 祐之 氏

歴史小説の「ウソ」

歴史の仕事をしていると損だなと思うことがある。いわゆる歴史小説や歴史ドラマを楽しめないのだ。頭の中で、あるいは口に出して、「ウソだ」と言ってしまう。もっとも、これは私の性格の問題かもしれないが。歴史小説について、多くの人が「 」に入ったセリフはその通り当時の人が言ったとは思ってはいないだろう。だが、地の文で説明的に書かれていることは本当だと思ってしまう。でもそれは作者が言いたいことを言うために創った物語に、真実味を与え、架空の人物や出来事を本当らしくするための説明であることも多い。

歴史小説は、戦前は「実録物」と呼ばれ、史実の登場人物や背景の出来事を用いて、架空の楽しい、面白いことを書くために作られた話で、軍談や講談、浪曲を筆記したり、新聞に連載したりすることから始まった。「実録」だから本当の事を記録したものと考えるのは大きな間違いである。

書いたことが本当のことと思われている筆頭の小説家が司馬遼太郎である。彼は歴史研究者ではない。彼は歴史書を著述しているのはなく、小説を書いているのである。例えば『峠』には、戊辰戦争時に江戸から蒸気船で帰ってきた河井継之助が、新潟から長岡へ向かうシーンがある。記述によれば、河井は信濃川沿いに歩いて三条を目指すが、日が暮れて夕霞にけむってみえた村上藩領の白根町で泊まり、宿に老婆を集めて越後の盆踊りを楽しむ。お気付きだと思う。白根は新発田藩領であり、信濃川岸ではなく中之口川岸の町である。事実としては、このとき河井は新潟から長岡藩の曽根代官所に寄っている。信濃川沿いに長岡に向かったのではなく、西川沿いの道を進んだ。私は司馬の間違いを指摘して喜んでいるわけでなく、司馬の記述を本当だと思い、河井は白根に泊まったと喧伝する人がいるのが困るのだ。

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小蒸気船「新潟丸」という船

2021/05/06 :越佐歴史漫筆

新潟市歴史博物館(みなとぴあ)  館長     伊東 祐之 氏

ごあいさつ

越後や佐渡の近世・近代の歴史について、書かせていただく機会を頂戴した。拙い文章だが、楽しんでいただきたいと思う。

私は、ずっと新潟県や新潟市の歴史の本を編んだり、展覧会を催したりする仕事に携わってきた。今も新潟市歴史博物館みなとぴあに籍がある。私たちは、みなさんにみなとぴあの館内で楽しく歴史を知っていただきたいと思っているのだが、残念ながら世間では「みなとぴあといえばロケーション」という評価の方が高いらしい。それでも「みなとぴあができて新潟の港を感じる場所ができた」と言われれば、自分が場所を決めたわけでもないのにうれしい。

みなとぴあの風景のなかでも是非眺めてほしいのが、私たちが「大回頭」と呼んでいる風景である。船は左舷を埠頭に着けて左側から乗り降りするものらしいので、佐渡から着いたフェリーは万代島では川の上流に向かって着岸する。そのため佐渡へ向かう時には、みなとぴあ前で巨大な船体を180度回転させて出航する。なかなかに勇壮なシーンである。まだ見たことのない方は、佐渡汽船の出航時刻に合わせてご来館を。

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