12月2020

新潟県における銀行業の発展⑨─加茂および今町地域での銀行の設立と展開─

2020/12/25 :郷土の近代化を振り返る

京都産業大学   経営学部   マネジメント学科教授  松本 和明 (まつもと   かずあき)  氏

1.加茂地域

加茂地域では、1882(明治15)年4月にいわゆる「銀行類似会社」として有限責任加茂会社が立ち上げられ(「賀茂会社」と表記されている文献もある)、翌5月5日に開業した。資本金は7万円(1株50円で1,400株を発行)、本店は南蒲原郡加茂町(現・加茂市)319番地におかれた。創設時の経営層は次のとおりである。

頭取:市川厚次郎

副頭取:笠原永昌(狭口村)

取締役: 古川伴吉郎・遠藤定次郎・石田友蔵・田下常治・本間雄平(検査係を兼務)
支配人:小池清広(上条村)

市川・笠原・吉川は地主、石田と田下は金融業、本間は醤油醸造業を営み、小池は屋号を「紅屋」と称していた。

株主には加茂町はもとより周辺町村の有力者たちが名を連ねている。

加茂会社の「規則」が残存している(加茂市史編集委員会編『加茂市史 資料編3 近現代』加茂市、2008(平成20)年)。全5条・50款から構成され、営業内容として「当座預金並ニ貸越定期預金貸付金割引代金取立手形為替及ヒ荷為替保護預リ又ハ両替等」(第一条第五款)が掲げられている。このほか、経営組織および役職員の任務、株主、株式の取り扱い、株主総会の運営、利益処分ないし配分の方法などが詳細に規定されている。役員は就任時に宣詞書の提出を求められ、「会社営業ノ全体ニ注意シ一切ノ事務ヲ処分シ総テ其責ニ任スヘシ」(第四条第五款)、「会社所有ノ金銀及ヒ諸証書預品等ヲ私用シ又ハ妄用スルヲ厳禁トス、社名ヲ濫用シ或ハ此規則ニ背戻シ夫レカタメ株主又ハ其他ノ人ヘ損失ヲ受ケシムル時ハ当時ノ役員之ヲ償弁スルノ責ヲ任スヘシ」(同第七款)と厳しい経営責任が課せられた。一方、株主に対しても「総会ノ節代人ヲモ出サスシテ決議ノ後異論アルトモ一切之ヲ申立ツル事ヲ得サルヘシ」(第五条第四款)、「総会ハ必ス株主ノ総員(本人代人共)十分ノ五以上ノ出席スルニ非レハ何事モ評議処分スルヲ得ス」(同第五款)とその責を果たすことが明示されている。

加茂会社は実質的には株式会社さらに銀行としての存在であるとみてよい。この時期の加茂での立ち上げは先駆的と評価できる。 続きを表示…

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新潟県における銀行業の発展⑧─三条地域での銀行の設立と展開─

2020/12/25 :郷土の近代化を振り返る

京都産業大学   経営学部   マネジメント学科教授  松本 和明 (まつもと   かずあき)  氏

1.三条銀行

三条地域に金融機関が創設される大きなきっかけとなったのが、1880(明治13)年5月21日に発生したいわゆる「糸屋万平火災」である。上町から出火した火災は三条町全域に加えて一ノ木戸・西および東裏館・上林・旭・須頃村さらに西蒲原郡燕町(現・燕市)まで延焼し、死者34名・負傷者52名、焼失戸数2,743戸を数える大惨事となった。

この災禍からの復旧さらに復興を推進するにあたり、三条町および近隣の有力者たちは資金調達の組織化を企図した。翌81(明治14)年4月15日に、有限責任三条会社が三ノ町に設立された。頭取に長谷川半平、副頭取に笠原文平、常務取締役に小師治七、取締役に源川万吉・広川長八・石田長次郎・浅間伝左衛門などが就いた。

長谷川は本下田村(後に森町村・下田村)在住で、南蒲原郡域を代表する地主の1人であった。源川は三条町一ノ町、石田は三ノ町で呉服太物商、浅間は一ノ町で小間物商を営んでいた(『日本全国商工人名録』1898(明治31)年)。

有限責任会社とは現在では目にすることがない組織形態であるが、ほぼ株式会社を意味するものといってよい。1893(明治26)年の商法(会社法)施行までは法的な株式会社は存在していなかったのである。

三条会社は「銀行類似会社」である。国立銀行条例では国立銀行以外では「銀行」と称することが制限され、さらにこの当時は銀行数過多のために国立銀行の新設が認められず、やむをえず銀行類似会社を選択することとなった事例が全国に多数存在していた。三条会社も1つのケースである。社名はともかく、預金・貸金・為替業務をおこなっており、実質的には銀行であったといっても過言ではない。

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新潟県における銀行業の発展⑦─長岡銀行(現・北越銀行)の設立と展開(下)─

2020/12/25 :郷土の近代化を振り返る

京都産業大学   経営学部   マネジメント学科教授  松本 和明 (まつもと   かずあき)  氏

1.貯蓄銀行業務への着手

1890(明治23)年8月に貯蓄銀行条例が公布された。貯蓄銀行は、1948(昭和23)年まで存在していた金融機関あるいは事業形態で、一般庶民に対する勤倹・貯蓄思想の啓蒙・普及と小口預金(当初は1口5円未満)の吸収を目的としたものであり、専業での設立のみならず普通銀行の兼営も認められた。

新潟県で初となる貯蓄銀行は、1895(明治28)年の貯蓄銀行条例の改正に伴い、同年9月に資本金3万円で設立された新潟貯蓄銀行である。初代の専務取締役が鍵冨岩三郎・鈴木久蔵・斎藤庫吉(後の2代目喜十郎)であった。

その後、1897(明治30)年に直江津積塵銀行(95(明治28)年設立・1915(大正4)年解散)および見附銀行(91(明治24)年設立・1922(大正11)年長岡銀行と合併)が兼営したものの、いずれも小規模に止まった。

こうしたなかで、長岡銀行は開業直後から貯蓄銀行業務の展開を志向していた。

開業翌年の97(明治30)年2月以降、支配人の広井一が上京して、安田銀行(現・みずほ銀行)および第百銀行(現在の三菱UFJ銀行のルーツ)で業務について学んだ。

1898(明治31)年2月に大蔵省へ貯蓄銀行業務兼営の認可を申請した。その申請書に、長岡が東山油田の発展や北越鉄道(現・JR信越本線)の建設により将来が有望であるものの、「貯蓄ヲ奨励シ、貯蓄ヲ安全ニ保護スルノ機関完カラザル為メ、人々ノ漸ク儲余シタル金ハ遊蕩費トナリ、奢侈費トナリテ飛散致候事有之、当行茲ニ見ル所アリ、大ニ貯蓄ヲ奨励」(北越銀行行史編纂室編『創業百年史』株式会社北越銀行、1980(昭和55)年)と指摘していることからわかるように、地域の経済成長で金回りがよくなった人々が贅沢になっていることを憂いて、地域の規律を正す意も含めて貯蓄業務の着手を決意したのである。

大蔵省からの認可を受け、同年3月15日から業務を開始した。早々から預金者が多く集まって盛況であった。なお、六十九銀行(同年1月1日に普通銀行に転換)の貯蓄業務開始は2日後の17日であった。 続きを表示…

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新潟県における銀行業の発展⑥─長岡銀行(現・北越銀行)の設立と展開(上)─

2020/12/25 :郷土の近代化を振り返る

京都産業大学   経営学部   マネジメント学科教授  松本 和明 (まつもと   かずあき)  氏

1.設立のプロセスと山口権三郎

1896(明治29)年2月20日に、新潟市で開催された北越鉄道(現在のJR信越本線のルーツ)の臨時株主総会に出席した大塚益郎(三島郡片貝村)・久須美秀三郎(同郡小島谷村)・渋谷初次郎および渋谷善作(南蒲原郡郷分村のちの傍所村)が会合を開き、長岡に新たな銀行の立ち上げが必要との認識で一致した。

翌3月11日に、古志郡長岡町(現・長岡市)の敦賀屋にて、久須美・大塚・渋谷善作に加えて野本松二郎(長岡町)、さらに山口権三郎(刈羽郡横沢村・現在の長岡市小国地域)が会合をもった。

これまで言及したように、山口は、日本石油(現・ENEOS)および新潟鉄工所や北越鉄道の設立と経営を主導するとともに新潟県会議長(第2・4・6代)を務め、新潟県の産業界・政界の最有力者の1人である。また、第四国立銀行や第百三十九国立銀行および小千谷銀行の取締役を歴任するなど金融業にも通暁していた。

山口も、前日の10日に長岡で開催された日本石油の臨時株主総会において、地域経済の発展に比して県内5行の国立銀行(第四・六十九・七十一・百十六・百三十九)では不十分で、「県下中央の長岡の地に一大銀行を設立し大に世間の需要に応じ、殖産興業の発達の道を講じ、文化進展に裨益する所なかるべからず」(広井重次編『山口権三郎翁伝記』岩瀬直蔵、1934(昭和9)年)と新銀行創設の意義を強調している。 続きを表示…

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新潟県における銀行業の発展⑤─村上・高田・津川地域での国立銀行の設立と展開─

2020/12/24 :郷土の近代化を振り返る

京都産業大学   経営学部   マネジメント学科教授  松本 和明 (まつもと   かずあき)  氏

1.村上:第七十一国立銀行

江戸時代において村上藩(概ね5万石)は三面川の鮭の採取権を独占し、明治以降も士族がこれを継承した。士族のなかでは、資産の余剰分を育英資金として積み立てる動きが出る一方で、日々の生活に困窮する家も続出するなど、他の旧藩域と同様に格差が生じていた。

こうしたなかで、1876(明治9)年の国立銀行条例の改正を契機に、士族の資産保全を目指して、旧藩士の若林安静と村部清纓(岩船郡村上本町)が中心となり、商人の樋口治郎平(村上町片町・呉服商)や岩佐喜蔵(大町)なども協力して、国立銀行の創設の準備が進められた。

1878(明治11)年4月9日に大蔵卿の大隈重信に対して提出された創立願には、発起人として、岩佐および尾崎助次郎、笹川四郎七(味方村)・小池與惣次(黒田村)・志田喜平次(上野村)・川口浜吉(塩谷村)、旧藩士の村部および古市喜内・樋口光軏・山口正清が名を連ねている(村上市編集・発行『村上市史 資料編8 近現代産業経済編』1993年)。

78(明治11)年10月7日に、資本金7万円をもって第七十一国立銀行として大蔵省から開業免許が下付され、翌11月15日に開業した。初代頭取には筆頭株主でもあった樋口、取締役に若林・岩佐・小池、支配人に村部が就いた。設立にはこの他、旧藩士の亘和順や山口直矢も関係し、旧藩の勘定方経験者などが行員となった。

開業にあたり、樋口は、「村上には特産物を製造する者はあるが、これに結合する資本家に乏しい。資本家が乏しいことは、資本の利子が高く産物が廉価にならず、需要も停滞し産業の発展も止まる。それで、資本と労力との結合を援けるべく銀行創立をみたが、今後の村上の産物と銀行の名の高まることを念じている」(村上市編集・発行『村上市史 通史編3 近代』1999年、181~182頁)と述べている。ビジネスと資金とを結び付けて地域振興に資するとの銀行のあり方を明言したのは興味深く、かつ今日的意義を有するものである。

 

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新潟県における銀行業の発展④─新発田地域での国立銀行の設立と展開─

2020/12/24 :郷土の近代化を振り返る

京都産業大学   経営学部   マネジメント学科教授  松本 和明 (まつもと   かずあき)  氏

本稿では、新発田および県北地域の銀行のあゆみを取り上げる。史実に関しては、『第四銀行百年史』および新発田市史編纂委員会編『新発田市史 下巻』(新発田市、1981(昭和56)年、伊藤武夫氏執筆)に依拠する。

1.第百十六国立銀行の設立と展開

新発田は、江戸時代は溝口家が率いる新発田藩(最大10万石)の城下町として繁栄し、明治以降は北蒲原郡さらに下越地方の重要拠点となり、陸軍歩兵第十六連隊が配備された。旧藩士の溝口半左衛門および佐藤吉貫(北蒲原郡新発田本村)と地主の五十嵐甚蔵(同郡金屋村、後の笹神村)・円山七衛武(同郡京ケ島新田、後の京ヶ瀬村)・高橋純吉(中蒲原郡古田新田、後の新津市)および水島孫右衛門とが連携して、1877(明治10)年の秋以降に国立銀行の創設計画を検討・策定し始めた。翌78(明治11)年12月10日に、資本金5万円の第百十六国立銀行として大蔵省から開業免状が下付され、79(明治12)年2月5日に新発田上町通第528番地で開業した。

初代頭取に五十嵐、取締役に溝口・高橋・円山および伊藤文吉(地主・中蒲原郡沢海村)が就任した(監査役はおかれず)。実務を担う支配人には笠原重信(農業・元官吏・中蒲原郡水原町)、副支配人に佐藤が就いた。

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新潟県における銀行業の発展③─第六十九国立銀行(現・北越銀行)の設立─

2020/12/24 :郷土の近代化を振り返る

京都産業大学   経営学部   マネジメント学科教授  松本 和明 (まつもと   かずあき)  氏

1.長岡の復興とランプ会

北越戊辰戦争が終わった翌年の1869(明治2)年の初春に、長岡城下にて職人の賃金をめぐって士族・商人・地主などの代表が集まり議論したものの結論が出なかった。表一ノ町で唐物商を営む岸宇吉は、長岡藩士の小林虎三郎に解決策を尋ねた。

岸は新潟の山本平蔵家から養子にはいった翌年の1850(嘉永3)年以降虎三郎から直接教えを受けていた。虎三郎は有効な方法を指導した。岸は、有識者の知見を傾聴して関係者と議論することの有用性を強く認識した。

この年、岸は当時としては珍しい輸入品である石油ランプを横浜で入手し、これを見物するために多くの人々が訪れた。こうしたなかで、長岡の今後が話題にのぼった。これを契機として、さらに踏み込んで議論するべく、各界各層の人々が集結して定期的に会合をもつこととなり、「ランプ会」と名付けられた。

幹事役としての常議員には、岸と三島億二郎(長岡藩大参事)・渡辺六松(唐物商)・目黒十郎(書籍商)・梛野直(医師)・佐藤作平(唐物商)が就いた。

主な参加者としては、士族は森源三(後の札幌農学校長)、商人は松田周平(書籍商)・木宮静一郎(後の長岡町長)・野本清平(四十物商)、地主の山田権左衛門・近藤九満治・広川真弘および笠原文平(三条町)、神職の三芳野千春、後に慶応義塾塾長・長岡洋学校教頭を務める藤野善蔵などが名を連ねた。

ランプ会では、東京などの最新情報を交換・共有するとともに、地域のあり方などについて活発な議論がたたかわされた。それまでの士族と町人との対立・反目関係を超え、出自・身分にこだわらず、戊辰戦争からの復興を目指して、自らの手で長岡の将来の方向性を築いていった。 続きを表示…

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新潟県における銀行業の発展②─第四国立銀行(現・第四銀行)の設立─

2020/12/24 :郷土の近代化を振り返る

京都産業大学   経営学部   マネジメント学科教授  松本 和明 (まつもと   かずあき)  氏

1872(明治5)年11月に、渋沢栄一が主導して国立銀行条例を公布し、近代的な金融機関としての銀行の創設を勧奨した。これにいち早く反応して新潟での立ち上げを企図したのが第2代新潟県令(知事に相当)の楠本正隆である。

1.楠本正隆の足跡と活動

楠本正隆は、1838(天保9)年3月20日に肥前大村藩士の直右衛門の長男として生まれた。楠木家は家禄60石の中級クラスの武士であったが、直右衛門は藩校の五教館の監察・頭取を務め(現在の長崎県立大村高等学校のルーツ)、尊皇攘夷運動にも関わり、同藩の「三十七士」として藩政でも活躍した。

正隆は戊辰戦争後に徴士として明治新政府に出仕し、長崎裁判所権判事を経て、1870(明治3)年に外務大丞となった。外務省のナンバー3のポジションである。

楠本は、1872(明治5)年5月に34歳で新潟県令に就任した。

楠本は大河津分水騒動(信濃川分流工事に対する蒲原郡一帯の反対運動)の鎮静化をはじめとして、地域の「殖産興業」・「文明開化」に向けての様々な施策や県政の確立と県庁機構の整備、郡および町村行政の改革、柏崎県の新潟県への合併(1873(明治6)年6月)などを旺盛に推進した。具体的には、新潟学校や新潟病院の創設、新潟・長岡間の信濃川蒸気船会社の創始への支援、日本初の近代的公園である新潟遊園の開設(現在の白山公園)、県政の状況を広報する『新潟県治報知』の発行、白勢成熙や真柄道三郎および中野貫一への石油会社創立の勧奨、区県会・新潟町会議の創定などがあげられる。肉食や断髪の奨励、イタリア人のピートル・ミオラへの資金援助(後にイタリア軒を開業)、盆踊り・盆休み・塞の神・湊祭などの旧来行事の禁止もユニークである。

楠本の県令在任は1875(明治8)年8月まで3年余であったが、その事績は評価に値する。この当時から、神田孝平(兵庫県令)や藤村紫朗(山梨県令)と並んで「敏腕三県令」と称された。 続きを表示…

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