新潟県における銀行業の発展⑪

2021/02/01 :郷土の近代化を振り返る

京都産業大学   経営学部   マネジメント学科教授  松本 和明 (まつもと   かずあき)  氏

1.六日町地域

六日町は、江戸時代以来、三国街道の宿場町とともに魚野川の河港として栄えた。江戸時代は縮布、明治以降は蚕糸業が主な産業であった。

1896(明治29)年に青木利福(中目来田村)をはじめ高橋捨松や遠藤利策(ともに六日町村)などの地主や商人が中心となって銀行創設の計画が策定されはじめ、98(明治31)年2月1日に六日町銀行として大蔵省から設立の認可を受けた。

資本金は当初7万円を予定していたが、出資希望者が多かったため、10万円に変更した。

初代の専務取締役(後に頭取)には青木が就任した。取締役や監査役は次のとおりである。

取締役: 高橋捨松(新潟県会議員)・豊島文治郎(塩沢村・縮布仲買商)・伊佐早彰(富実村)・ 大平幸吉(余川村)・樋口良助(湯沢村)

取締役兼支配人:山崎量平(大富村)

監査役: 上村廉平(大富村)・中島恵治(大崎村)高橋藤九郎(大富村)・関与三兵衛(浦佐村・肥料商)・高橋郷治郎(長崎村・新潟県会議員)

設立当初の株主は242名(合計2,000株)で、南魚沼郡内の株主は225名・1,825株と大半を占めていた。

その一方で、北魚沼郡津山村(現・長岡市川口地域)の古田島清作が50株、古志郡長岡町の小林文平が20株を所有していた。少数株主ではあるが、中魚沼郡や三島郡深才村(現・長岡市)の在住者もいた。

小林は、表四ノ町(現・表町4丁目)で「豊後屋」との商号で呉服太物商を営んでいた。長岡商工会議所議員や長岡市会議員も務めている。小林は縮布や紬の小売も手がけており、商取引において六日町との関係が深まり、出資をおこなったと考えられる。

南魚沼郡の株主は、上述の役員の居住地をみてもわかるように、六日町地域のみならず、塩沢や湯沢および大和地域にも広がっていた(南魚沼市教育委員会発行『六日町史 通史編 第三巻 近・現代』2018年)。

ところで、南魚沼郡における初の銀行は、1895(明治28)年1月25日に三用村(後の東村)大字雷土で創設された雷土銀行である(専務取締役:佐藤梅太郎・上村宇伝治)。同年3月に開業するにあたり、佐藤は「一銭の金は小なりと雖も集まって千万鎰に至れば即ち以て大業を興す所以なり」(南魚沼教育委員会発行『大和町の近・現代』2020年)と銀行の意義を強調している。同行はこの地区の頼母子講である「共積講」を改組したもので、この時点の資本金は1万2,000円にすぎず、98(明治31)年には2万円に増資したものの、郡全域をフォローできる事業規模ではなかった。

それゆえ、六日町銀行は、地域に根付いた本格的な金融機関として、郡内全体から期待を集めたのである。

1898(明治31)年4月1日に、六日町村大字六日町第63戸にて開業した(現在の第四北越銀行六日町支店の場所、1900年7月に町制施行)。

開業直後から、六日町銀行は地域の農家や商工業者、特に蚕糸関係者に対し積極的に資金を提供した。

注目すべきは、たびたび魚野川の出水の被害にみまわれた浦佐・大崎・塩沢など8カ村に対して無担保かつ低利子融資をおこなったことである。地域に寄り添う姿勢の象徴といえる。

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