新型ウイルス感染症禍とタイ経済

2021/03/01 :寄稿 海外レポート

株式会社日本総合研究所 調査部 副主任研究員  熊谷 章太郎 氏

1.緩慢な景気回復

新型ウイルスの感染拡大抑制に向けたロックダウンを主因に、タイ景気は2020年前半にかけて急速に悪化した。その後、市中感染の沈静化を受けた経済活動の再開により景気は持ち直しに転じたが、回復ペースは緩慢なものにとどまっている。2020年7~9月期の実質GDPは前年比▲6.4%と、アジア通貨危機以来の大幅なマイナス成長を記録した同年4~6月期(同▲12.1%)からマイナス幅が縮小したものの、3四半期連続のマイナス成長となった(図表1)。タイの景気回復ペースが緩慢な理由としては、以下の4つの要因を指摘できる。

第1に、新型ウイルス感染症禍前にGDPの約1割を占めていた観光サービス輸出の消失である。政府は2020年3月下旬に外国人観光客の受け入れを全面的に禁止した後、同年10月より段階的に観光客の受け入れを再開しているが、入国後の2週間の隔離措置を含む様々な規制が残存していることから外国人旅行客数は殆ど回復していない。

第2に、国内感染の再拡大の予防に向けた活動制限の継続である。2020年春先に拡大した市中感染が沈静化すると百貨店や娯楽施設の営業は再開され、夜間の外出規制や県をまたぐ移動制限も解除された。しかし、大規模な集会禁止や飲食店などのソーシャル・ディスタンシングなど、感染再拡大の予防に向けた活動規制は継続しており、GDPの約5割を占める消費の回復ペースは弱い。こうしたなか、2020年12月以降、首都バンコクに隣接するサムットサコン県の大規模クラスターの発生をきっかけに各地で感染拡大が加速し始めたことを受けて政府は活動制限を再び厳格化させており、それに伴う景気下押し圧力が強まりつつある。2021年初、政府はGDPの約5割を占めるバンコク首都圏を含む28都県を感染リスクが最も高い「レッドゾーン」に指定し、感染リスクの高い娯楽施設や学校の閉鎖などを決定するとともに、商業施設に対して営業時間の短縮を要請した。「レッドゾーン」の中でも感染拡大リスクが高い県では、県をまたぐ移動に対する制限や移動情報を追跡できるスマートフォンのアプリの活用が義務付けられており、今後の感染動向次第で規制が一段と厳格化される可能性がある。

第3に、財輸出の低迷である。財輸出はGDPの約6割を占めるなど、消費とともにタイ景気を左右する需要項目であるが、新型ウイルス感染症禍を受けた各国の自動車販売の減少や資源価格の下落を背景に輸送機械や石油化学製品を中心に前年割れが続いている。国・地域別にみると、早い段階で新型ウイルス感染症の封じ込めに成功した中国向け、および中国への輸入依存度引き下げを目指す米国向けは堅調に推移する一方、輸出の2割強を占めるASEAN向けや日本向けの回復が遅れている。

第4に、控え目な財政・金融政策のスタンスである。財政政策についてみると、タイの財政状況はアジアの中で相対的に健全であるものの、急速な少子高齢化に伴う中長期の財政悪化懸念への警戒を理由に、政府は中長期的な財政の健全性に配慮した予算編成を続けている。そのため、2020年前半にGDP比の15%に相当する景気対策が策定された際も、タイ中央銀行による社債購入、低金利融資、中小企業の債務支払い猶予など、直接の財政支出を伴わない施策が事業規模の約5割を占めた。社会保険未加入の自営業者や農家への現金支援などの対応策についても大部分の財源は予算の組み換えにより確保され、別の分野の歳出が削減された。

他方、金融政策は、政策金利を0.5%と2000年にインフレターゲットを導入して以降、最も低い水準に引き下げるなど、タイ中央銀行は従来の家計債務抑制を強く意識する政策スタンスから景気浮揚を優先するスタンスに転換している。ただし、資産バブルの発生や今後の金利上昇リスクを軽視した家計の借入増加などへの警戒も怠れないことから、2020年後半以降はインフレ率が物価目標(前年比+1~3%)を下回り、バーツ高基調が続くなかでも政策金利の据え置きを続けている。

先行きを展望すると、短期の景気は新型ウイルス感染症の拡大とワクチンの普及状況に左右されるため、景気上振れ・下振れ両方のリスクが大きい状況が続く。こうしたなか、メインシナリオとしては、各国でのワクチン普及に伴い新型ウイルス感染症禍が終息に向かい、それを受けて各種活動規制が段階的に解除されるなかで景気回復が続くという展開が見込まれる。もっとも、高水準の家計債務が消費の重石となり続けることに加え、後述する政治不安化リスクもあるため、新型ウイルス感染症禍後の景気回復ペースは緩やかなものにとどまる公算が大きい。

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